お知らせ

3月16日明石駅前にて
泉房穂の演説 「市民の皆さまとの約束を果たす」

2019/03/16
2月1日あの辞職会見の後、ほんとに、いろんな思いがありました。
自分のしてしまったことに対する責任、それはこれは当然のことながら
自分の発してしまった言葉である以上自分に責任がある。
自分の言葉である以上、市長という立場にある以上、辞職ということ以外ない。
市役所に抗議の電話がなりやまず、市民の皆さまが急ぎの電話が市役所につながらない状況になり、自分のせいで市民の生活が大変なことになるという思いで
よりはやく市民の生活をもとにもどすために辞職会見をひらきました。
その後も、そういった責任のとりかたでよかったのか、また、このような立場のものがもう語ることはないという思いでいました。

そういった中、多くの皆様から励ましのお手紙などもいただきました。
そうした中、まさにこの場所で署名活動がはじまりました。
市民の皆様に本当にもうしわけない。こどもを大切にするといいいながら自分の子供にも申し訳ないことになった。
娘と息子、母親も署名活動をみにきていました。
もう一回がんばってほしいという市民の方がいることは、家族を救ってくれました。

3月3日には、みなさまの思いのこもった5000名もの署名があつまりました。
当日署名を受け取るはずでありましたが、実際署名を受け取る場面になった時、あまりにも署名のその重さを感じ、自分では受け取ることができず、後援会会長に受けっとってもらいました。
家へ帰ってから署名をみさせていただきました。
あの署名は名前とメッセージのみを書くようになっていた署名でした。
みなさん、一人一人の思いが綴られていました。

がんばってください。応援しています。の他に様々な気持ちが書かれていました。
明石は子育てにいいと聞いて、やっと引っ越してきたのに市長にやめられたら困ります。
第二子以降が保育料無料と信じて第二子を妊娠したのに続けてもらわないと困ります。
お年を召した方が、こどもの次は高齢者といっていたのは嘘だったのですか。
明石駅前だけではなく、西明石もちゃんとやるといったじゃないですか。

さまさまな気持ちを書いていただいていました。
改めて私自身のもうひとつの責任に気づかされました。
自分のしてしまった発言にたいする責任は選挙の結果にかかわらずずっと負い続けるものです。
もう一つの責任、これからの明石にたいする責任です。

犯罪被害者の会の方々からも、
犯罪にあった被害者がうつむいて暮らすのではなく、被害にあってもその後もいっしょに暮らしていける社会になるよう約束したじゃないかと。

市長になって8年、数多くの約束をしてきたことに気がつきました。
ここでやめてしまっては責任を果たすことにはならない。
明石のまちをやさしいまちにしていくことが私の責任です。

私は明石で生まれて明石で暮らしました。
家族の事情もあり、子供のころからこのまちに対してくやしい思いもありました。
私は悔しい思いの中で幼いころから暮らしていました。
どうして障害があるからといって、あっちへ行けというのか。
こどもごころにもっとやさしいまちをつくりたいと思いました。
困っている場合に自然と手をさしのべられるそんなまちがいい。
こどもの頃にそう思いました。
それ以来、自分なりに一生懸命がんばって、明石のまちがお互いが支えられるようなまちにしたいと思いました。自分なりに一生懸命勉強しました。
明石が大好きで、東京にいるときも胸をはって出身は明石といいました。
そのころからいつか明石にもどって市長になって、明石の街をやさしいまちとして全国に誇れるまちにしたいと自分に誓ったのは20代のころです。
自分なりに一生懸命勉強して弁護士になり、市長になりました。

明石のまちをやさしいまちとしてしっかりやりとげていきたい。
多くの皆様にお誓いもうしあげてきた、改めてそのことに気づきました。
最初から高齢者、障害者、こども全部できればよかったが、8年前すでに明石は赤字財政でした。
一気に全部やるわけにはいきませんでした。
まずこどもから始める、まず、明石駅前からはじめるということに決めました。
まちのみんなですべての子供達をしっかりささえることで人が集まるとおもっていました。
おかげさまで人口が増え、赤ちゃんが増え、税収が増え、貯金がふえました。
私が市長になった頃は、70億円になってた市の貯金を100億円以上にもどすことができました。

見通しがたったので、高齢者や障害者の分野もやっとできる段階になりました。
半年前に高齢者の認知症になっても大丈夫という考えで、まずは認知症の診断費用の無料化を全国初ではじめました。
目の前にある市民の生活に必要であれば国がどうあれ関係なく、明石から始めるという考えでやってきた。まさにやりかけなんです。
私は市長に就任した時は駅前再開発ビルは枠だけきまっていました。
すでに決まっていたサラ金やゲームセンターが残るビルにしたくなかった。
大きな税金を使うビルに市民にとって必要な空間をつくりたかった。
図書館を面積4倍にして、車椅子でも通れる図書館にした。
対面朗読しなくても、視覚障害の方が一人でも本を読めるよう機械を導入した。
こどもたちが親のお金のあるなしにかかわらず絵本を楽しめるようにした。
親のお金の事情に関係なく楽しめる施設にした。
どんな子供も楽しめる明石にしたかった。

西明石や大久保についても今からです。
こどもだけではなく
高齢者にも障害者にもすべての市民にやさしいまちにしたいのです。
一気に全部はできません。西の端も明石なんです。
それぞれに地域に住んでいる全ての人に対して
多くの約束をしています。
自分の発した言葉の責任とともに、市民の皆さまとの約束を果たす責任がある。

選挙初日はどんな批判があるのか、どんな罵声が飛んでくるのか、ほんとうにこわかった。
でも実際は街中に出たら明石の皆さんはほんとうにあたたかくむかえてくれました。
ずっと申し訳ないという思いで、ずっと最初の一言は申し訳ありませんでしたということばかり言っていました。
でも市民の皆さんから厳しいことばをかけられるようになりました。
わたしたちは市長のおわびを聞きたくて立候補をしてほしかったのではない、これからの明石に対してしっかり胸をはって仕事をしてほしいから立候補をお願いしたのです。いつまでも泣き顔なんていりません。胸を張って仕事をしてください。

そういうことを言われる中で改めて気づきました。
どんなに批判されても叩かれてもみなさまとの約束を果たしていくため、市民の皆様のためにしっかり仕事をしていきたい。
あれもこれもない選挙選ですが、私にはなにものにも変えがたいものがある。
それはみなさんです。
こんな至らない私に対して、それでも、もう一度がんばれと言っていただける皆様がいていただくことが、まさに私にとってのささえであり、それがこれからもがんばろうするエネルギーになっています。

多くのみなさまから励ましをいただき、泣き顔はみせない、そしてしっかりと明石のまちに対して責任を果たしていくつもりです。
市民の皆さんとともに全身全霊かけてがんばりますので、もう一度私に託してください。みなさんといっしょに明石のまちをつくっていきます。
私といっしょに明石のまちをつくってください。明石のためにがんばります。
私が汚ししてしまった明石の名を、何十倍も何百倍もがんばって
胸を張って明石といえるまちにしていきますのでどうぞよろしくお願いします。

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こちらもご覧ください。

3月16日明石駅前にて

署名活動をしてくださった方からの応援スピーチ1
https://www.izumi-fusaho.com/board/detail.cgi?sheet=hp30&no=356

署名活動をしてくださった方からの応援スピーチ2
https://www.izumi-fusaho.com/board/detail.cgi?sheet=hp30&no=357

署名活動の方々からの応援スピーチを受けて
https://www.izumi-fusaho.com/board/detail.cgi?sheet=hp30&no=358

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